上山城30周年

城主となった土岐頼行公が築城した時代の上山城は、奥州の3名城と呼ばれたのだという。その姿は資料としては明確には残ってなく、天守を持たないが、三層楼の櫓があったと説が有力のようである。ただ、残念なことに築城してまもなく、幕府からの「小藩には相応しからず」と破壊を余儀なくされた。そのまま、天守も楼も持たないまま明治を迎える。江戸時代後半には、家中でごたごた騒ぎが続き、それを題材にして書かれたのは、高橋義夫さんの直木賞受賞作の「狼奉行」である。高橋のおじさん曰く、江戸末期の上山城(藩?)はボロボロだったとなんかに書いてあったよ、ここに限らず、幕末の藩政は何処も厳しく、商人に借金をしている。明治になり城は壊されていくが、借金のかたに、城で使われていたヒノキの木材のひとつが現存する長谷屋旅館の蔵座敷の材料に流れたと言われる。
とはいうもの、お城の形のついてのシンパシーはあまりない。むしろ、土塁を含む、城郭の形には興味がわく。秋庭俊氏が書かれた‘森鴎外の帝都地地図‘は興味深い。森鴎外が描いた東京方眼図で探った、江戸幕府が築いた江戸の計画に隠された秘密が、五陵郭で、地下道を作り、地名を埋め込み、暗号化し、その秘密を明治政府が暗黙のうちに受け継ぐ。それは、欧州の5角形の都市要塞を真似て作ってある。、三河出身の家康がなんもない場所を都とした謎も解ける。彼は容易周到に地下通路も埋め込んだ。古代ローマと同じように。それらを国家の命令でドイツに留学した森鴎外が日本に帰ったのち、国を背負って医学分野で王道を歩むかと思いきや、小説{青年」や東京方眼図制作発表で、江戸から受け継いだ国家機密に迫ろうとしている。そして、城郭の形で言えば、大阪城の土塁も改築し五角形であり、近々公開の映画「のぼうの城」のモデルの城郭のカタチも五角形であった。恐るべき五芒星。難攻不落な五稜郭。

さて、今回、上山城開館30周年ということで、沢庵禅師が説いた「上中下三字説」の記念碑がお披露目となり、改装された展示室も公開された。久々に中をゆっくりと観ることができた。展示物を見ながらフジさんとずっと話をしてた。来年が上山温泉開湯555年で事業を考えているというよりは継続して歴史ある街づくりをしなければならない。「羽州街道の宿場町で、当時温泉があったのは上山で、その他は殆どないんだよ。」と街道地図を指さし教えて下さった。
展示室前にさりげなく酒井抱一の絵画が掲げられていた。彼の絵画は現在山形美術館で公開中である。


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